体罰という暴力は10年経って教育に変わる

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「俺らの頃なんて学校で体罰なんて当たり前だったよ。今の教師は大変だよ。それに、会社にしたってよく上司に殴られたもんだよ。あの時代なんて全部ブラックだよなあww ったく、お前らはいいよなあ」

思い出フィルター

今の10代や20代は、おじさん達によくこんなことを言われるだろう。

「そもそも我々の時代の体罰には愛情があった。あれは教育の一環だった。結局、体罰とは受けたほうがどう感じるかなんだよ」

有識者に至ってはこんなことも言うが、こんなものは全くのデタラメだ。

言わば思い出フィルターである。

私も学校で先生によく殴られたし、親にも殴られたし、会社で上司にも殴られた。

その時に感じたのは「憎しみ」以外の何者でもなかった

ぶん殴られてありがとうございますなんて思う人間の思考回路はない。

殴られた人に問いたい。殴られたその瞬間、どういう感情になったか、今一度よく思い出してみてほしい。

思い出せないなら、明日会社に遅刻していって、上司にぶん殴られたらどう感じるかを想像して欲しい

殴られたあと生まれるもの

殴られるとなぜ憎しみが生まれるのか。それは痛い思いをするからだ。

ここで言う「痛み」とは、身体的な痛みと精神的な痛みの二種類がある。

たいてい、前者の痛みは幾日も経てば消えるが、後者の痛みはなかなか消えない。

自分で翻って考えてみるに、この精神的な痛みは、どうやら人をいい方向に導くようである。

この痛みは「恐怖」と「エネルギー」を作るからだ。

恐怖

まず1つは「恐怖」。怖いと感じる心。これは犬のしつけと同じだ。

犬が悪いことをしたら叩いて身体で分からせる。酷な気もするが、犬は散歩に出かけると平気で道路に飛び出していく。そうすればあっという間に轢死してしまう。だから飛び出してはいけないと分からせる。

他人に噛み付いた時も同様だ。「やめなさい」といって「はい」と止める犬はいない。ぶん殴ってでも止めるしかない。

飛び出していくのも、噛みつくのも、犬には何らかの理由があってその行動に転じているわけだが、人間社会と共存させていくためには叩いて分からせないといけない場面は多く存在する。

子どもも同じだ。犬と違って言語は通じるが「騒がないで」と口で言って聞く子どももまたいない。だからきちんと叱りつけないといけない。それが何か分からなければ包丁だって平気で振り回す。

怖いと感じた記憶は持続力が高いため、その誤ちを繰り返しにくくなる。これが体罰がもたらす内訳の1つである「恐怖」だ。

エネルギー

次に「エネルギー」。叱られた人は必ず復讐心を持つ。

この復讐心とは、それをおこなった人に対してということに限定せず、自分に対して、世間に対して、世の中に対してだ。

バカにされて嫌な思いをするから勉強をする。負けて悔しい思いをするから練習する。失敗して笑われるから努力する。

えてして人のエネルギーとはバネのように、負から転じる際に強い原動力となる。

これが体罰がもたらすもう1つの内訳である「エネルギー」。

「恐怖」心が正しい行動へと人を制御させ、やがて「エネルギー」に変わる。

怒る人は結構正しい

今あなたがこうしてこんな文を読んでいられるのも、親、教師など、当時のあなたを取り囲んだ環境が良かったからである。

間違ったことをすれば叱りつけてくれる人がいたということだ。

その当時は恐怖しか抱かなかったかもしれないが、その恐怖があなたを間違った方向へ導かなかった。

子供のころ親に口うるさく言われていたことは何一つ間違ってなかったと、20代にもなれば気づくはずだ。

勉強しろ、早起きしろ、努力しろ、ルールを守れ、人に迷惑をかけるな。

そんなことは分かってるよと不機嫌な顔をしていただろう。

しかし大人になると、どれも正しかったと理解するどころか、むしろもっと強く言ってほしかったとさえ思う人も中にはあるだろう。

寝坊した朝「どうしてもっと強く起こしてくれなかったんだ」と騒ぐあれと同じだ。

そう、つまりそれが腹に落ちるまでは5年10年の時間を要するのだ。

振り返って思うから

だから大人たちはこう言う。

「我々の時代の体罰には愛情があった」と。

それは今振り返って思うからである。

お前のようなやつが殴られてすぐに「ありがとうございました」なんて言える立派なガキだったわけねーだろと思う。

時間が経ってから思うのだ。殴るほうのストレスやエネルギーは本当に大変だと。

誰もが教育者ではない。みんな父親・母親、初体験だ。全員が金八先生のように冷静に諭せるわけでもないし、子どもの教育に充てられる時間だって限られている。

教育が、体罰が下手な人だっている。加減が分からない人もいる。大人だって失敗する。

だから体罰という選択肢があってもおかしくはない。少なくとも我々世代、そしてその上の世代の人間の大半が体罰を受けて育ち、その人間が今の日本を動かしている。

体罰を受けた子どもが全員歪んだ心になると決めつけるのはおかしい

体罰の是非

なら体罰はアリなのか。

体罰に関する議論で一番問題なのは、体罰をアリかナシかの二択で考えるということだ。

一律で全てダメだと決めてしまうのは教育放棄である。

ルールを簡素化して分かりやすくしてるだけ。

どんな事情であれ殴ったならアウト。どんな事情であれ殴ってないならセーフ。

こんなものを明言化できるわけがない。教師は国家権力を持つ警察ではない

我々の体罰があった時代であっても、なぜあそこは殴られて、あそこは殴られないのかといった保護者のクレーム問題は当時でもあった。

先生方はそこに否応なく応じるしかなかった。

あそこのお子さんはある程度口で言えば分かる子なんだけど、おたくのクソガキは何度言っても分からないからだよこのバカとは言えないわけで、その都度その問題と直面するしかない。

ナシ、と決めてしまうのが良くないのと同様、アリ、と決めるのも違う。結局体罰は暴力であることには変わりはないからだ。

そんなのは当然のことで、だから体罰は必要、という言い方も本来はおかしいのだ。

必要悪、とも違う。しいて言うなら毒を持って毒を制す、がまだ近いほうか…

その二人の関係性

結局全てはその教師と生徒の関係性だ。

男女関係を考えても分かるように全ての関係性はみんなまるで違う。

報道に出るのは最後の最後で「暴力」という、人々がもっとも関心を持ちやすいワードに至ってからそこだけを知るので、「怖い」「ひどい」「体罰反対」と我々はいつも扇動される

憎しみと時間

忘れてはいけないのは、体罰を受けた瞬間は憎しみしか抱かないということ

しかしこれが、5年、10年経つと感謝に変わっていくということ

そしてそれさえも、全てがそうだとは限らないということ。

どれだけ体罰で厳しくしても間違った方向に行く者もいるし、それが「当時の体罰が原因で…」とする者もいる。

中にはただの気晴らしでぶん殴ってくる教師もいるし、DV親もいる。

しかし体罰を語るうえでこれらを全て一緒くたにしてしまうと議論にはならない

体罰以外の方法

体罰が生む「恐怖」と「エネルギー」を、体罰以外の方法で作る方法もある。その方法を優先すべきだし、ほとんどの人はそうするはずだ。

暴力が全てではもちろんないし、使わないにこしたことはない。

しかし中には私を含め、口で言っても聞かないような輩は存在する。

現にここに一人は存在した。いくら言われても、次はいかにバレないようにやるかしか考えなかった

でもあんまりにも怖い先生が次々と出てくるから、殴られるのが怖くてやめた

もしあそこでやめてなかったら、取り返しのつかない悪さをしていたかもしれない。

5年10年を経て、憎しみは感謝に変わった。

体罰という名の暴力は、長い年月をかけて教育に変わったのである。