「俺らの時代なんて学校で体罰なんて当たり前。会社でもよく上司に殴られた。あの時代なんて全部ブラックだよw ったく、お前らは楽でいいよなあ」
思い出フィルター
今の10代や20代は、おじさん達によくこんなことを言われるだろう。
「そもそも、我々の時代の体罰には愛情があった。あれは教育の一環だった。結局、体罰とは、受けたほうがどう感じるかなんだ」
有識者に至ってはこんなことも言う人がいるが、こんなものは全くのデタラメだ。
いわば、思い出フィルターである。
私も学校で先生によく殴られたし、親にも殴られたし、会社で上司にも殴られた。
その時に感じたのは、「憎しみ」以外の何者でもなかった。
ぶん殴られて、ありがとうございます、なんて思う人間の思考回路はない。
殴られた人に問いたい。
殴られたその瞬間、どういう感情になったか今一度、よく思い出してみてほしい。
思い出せないなら、明日会社に遅刻していって、上司にぶん殴られたらどう感じるかを想像して欲しい。
殴られたあと生まれるもの
殴られるとなぜ憎しみが生まれるのか。それは、痛い思いをするからだ。
ここで言う「痛み」とは、身体的な痛みと精神的な痛みの、二種類がある。
前者の痛みは数日も経てば消えるが、後者の痛みはなかなか消えない。
翻って考えてみるに、この精神的な痛みは、どうやら人をいい方向に導くようである。
「恐怖」と「エネルギー」を作るからだ。
恐怖
まず1つは「恐怖」。
怖いと感じる心。これは、犬のしつけと同じだ。
犬が悪いことをしたら、叩いて身体で分からせる。酷な気もするが、犬は散歩に出かけると、平気で道路に飛び出していく。そうすれば、あっという間に轢死して一巻の終わりだ。だから、飛び出してはいけないと分からせる。
他人に噛み付いた時も同様だ。「やめなさい」といって「はい」と止める犬はいない。ぶん殴ってでも止めるしかない。
飛び出していくのも、噛みつくのも、犬には何らかの理由があってその行動を取っているわけだが、人間社会と共存させていくためには、叩いて分からせないといけない場面は、多く存在する。
子どもも同じだ。犬と違って言語は通じるが、「騒がないで」と口で言って聞く子どももまたいない。
だからきちんと叱りつけないといけない。それが何か分からなければ、包丁だって平気で振り回す。
怖いと感じた記憶は持続力が高いため、その誤ちを繰り返しにくくなる。
これが体罰がもたらす内訳の1つである「恐怖」だ。
エネルギー
次に「エネルギー」。
叱られた人は必ず、復讐心を持つ。
この復讐心とは、それをおこなった人に対してということに限定せず、自分に対して、世間に対して、世の中に対してだ。
バカにされて、嫌な思いをするから勉強をする。
負けて、悔しい思いをするから練習する。
失敗して、笑われるから努力する。
得てして人のエネルギーとはバネのように、負から這い上がろうとする際に強い原動力となる。
これが、体罰がもたらすもう1つの内訳である「エネルギー」。
「恐怖」心が、正しい行動へと人を制御させ、やがて「エネルギー」に変わる。
怒る人は結構正しい
今あなたが、こうしてこの文を読んでいられるのも、親や教師など、当時のあなたを取り巻く環境が良かったから、と気付けている人は少ないだろう。
間違ったことをすれば叱りつけてくれる人がいたから、道を踏み外すことはなく、スマホも持って、このブログを読めるようんは普通の社会生活を送れている。
当時は怒られて恐怖心しか抱かなかったかもしれないが、その恐怖が、あなたを間違った方向へ導かなかった。
子供のころ、親に口うるさく言われていたことはほぼ間違ってなかったと、20代にもなれば気づくはずだ。
勉強しろ、早起きしろ、努力しろ、ルールを守れ、人に迷惑をかけるな。
そんなことは分かってるよと、言われればいつも不機嫌な顔をしていただろう。
しかし大人になると、どれも正しかったと理解するどころか、むしろもっと強く言ってほしかったとさえ思う人も中にはいるだろう。
寝坊した朝「どうしてもっと強く起こしてくれなかったんだ」と騒ぐあれと同じ。
そう、つまりそれが腹に落ちるまでは、5年10年の時間を要するのだ。
振り返って思うから
だから大人たちはこう言う。
「我々の時代の体罰には愛情があった」と。
それは、今振り返って思うからである。
お前のようなやつが殴られてすぐに「ありがとうございました」なんて言える立派なガキだったわけねーだろと思う。クソ生意気だったてめえの幼少期振り返ってみろ。
時間が経って思うのだ。殴るほうのストレスやエネルギーは、本当に大変だと。
誰もが教育者ではない。みんな父親・母親、初体験だ。
全員が金八先生のように冷静に諭せるわけでもないし、子どもの教育に充てられる時間だって限られている。
教育が、体罰が下手な人だっている。加減が分からない人もいる。大人だって失敗する。
だから体罰という選択肢があってもおかしくはない。少なくとも我々世代、そしてその上の世代の人間の大半が体罰を受けて育ち、その人間が今の日本を動かしている。
体罰を受けた子どもが全員歪んだ心になると決めつけるのはおかしい。
体罰の是非
なら体罰はアリなのか。
体罰に関する議論で一番問題なのは、体罰をアリかナシかの二択で考えるということだ。
一律で全てダメだと決めてしまうのは、教育の放棄である。
ルールを簡素化して、分かりやすくしようとしてるだけ。
どんな事情であれ殴ったならアウト。どんな事情であれ殴ってないならセーフ。
こんなものを明言化できるわけがない。教師は国家権力を持つ警察ではない。
我々の体罰があった時代でも、なぜあいつは殴られて、なぜあいつは殴られないのかという、保護者のクレーム問題は、当時でもあった。
先生方は、否応なく応じるしかなかった。
あちらのお子さんはある程度口で言えば分かる子なんだけど、おたくのクソガキは何度言っても分からないバカからだよこのバカ、とは言えないわけで、その都度その問題と向き合うしかない。教師に殴りかかって、やり返すところをスマホで撮影しておいて全国に拡散させようと企む輩相手であっても、だ。
ナシ、と決めてしまうのが良くないのと同様、アリ、と決めるのも違う。結局体罰は暴力であることには変わりないからだ。
そんなのは当然のことで、だから体罰は必要、という言い方もおかしいのだ。
必要悪、とも違う。しいて言うなら、毒を持って毒を制す、がまだ近いか。
その二人の関係性
結局全ては、その教師と生徒の関係性だ。
男女関係を考えても分かるように、関係性はみんな違う。
報道に出るのは最後の最後に出てきた「暴力」という、人々がもっとも関心を持ちやすいワードに至ってから、その部分だけを知るので、「怖い」「ひどい」「体罰反対」と我々はいつも扇動される。
なぜそうなったかを知らず、1億総コメンテーターとなり世論に合わせるかのように論じ、1億総裁判官となって、蹴飛ばしていいおもちゃのように裁く。
体罰とは
口で言っても聞かないような輩は、確かに存在する。
現にここに一人存在している。いくら怒られようが、次はいかにバレないようにやるかしか私は考えてなかった。
でも、次々と怖い先生が出てくるから、殴られるのが怖くてやめた。
もしあそこでやめてなかったら、取り返しのつかない悪さをしていたかもしれない。
5年10年を経て、憎しみは感謝に変わった。
体罰という名の暴力は、長い年月をかけて教育に変わった。
という、あくまでこれも、私の一例に過ぎない。