鷺谷政明の埼玉県外

人と被らない会話の小ネタ

今の自分は前世の自分が望んだ姿である

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これはいつもお世話になっている鍼灸師の先生から聞いた話。

「今の自分は前世の自分が望んだ姿である」

最初に断っておくが、私も先生も、特定の何らかの宗教に入信しているわけではなく、また、信仰しているわけでもない。

前世の自分が感じていたこと

さて、これはどういうことか。

例えば脚が早い人は、来世で脚が早くなりたいと願った

容姿がいい人は、来世で容姿が良くなりたいと願った

ということ。

しかし、そう考えると、みんなそれで良くなるのではと考える。

そこでふと思う。

多くの成功者たちは「次生まれ変わっても今の自分になりたいですか?」と聞かれると、「来世は違う自分になりたい」と答える。

その理由は「辛いから」だと。

外から見れば羨ましい人生を歩んでるように見える人でも、本人の中ではものすごい葛藤があり、苦悩があり、プレッシャーがあり、それを凌駕するための自助努力があり、それでようやく手にした成功があり、また、自分へのハードルが高いため、それを成功として捉えてない人も多い。

すると、どれだけ頑張っても到達できず、手にしかけたと思ったそれはまた離れ、再び苦悩し、という、まるでゴールがない螺旋階段をずっと上り続けているような感覚に陥る。

我々は、あくまで外から見て、輝いているところしか目にしていないから、本人の苦悩は計り知れない。

すると。

来世ではここまで頑張らなくても、もう少し平々凡々に暮らしたいと思うのかもしれない

例えば、世間一般的に見て優れていること。

今だと、コミュニケーション能力が重要視される社会だが、コミュニケーション能力がない人は、高いコミュニケーション能力がために前世でなにか大きな失敗をしたのかもしれない。

容姿が良くない人は、容姿が良すぎたためにひどい目に遭った人なのかもしれない。

こう考えていくと、今の自分とはなんなのか。

優れているところと、劣っているところ、いろいろとある。

優れているところは、前世の自分がそうなりたいと強く望んだ形なのだ。

そして、劣っているところは、前世の自分が、その能力は必要ないと判断したのかもしれない。

前世は人間とは限らない

一方で。

前世が人間だったとは限らないという考えかたもある。

現世で徳を積んだものだけが来世も人間でいられると。

人に迷惑をかけたり、人を殺めたりするような人間は、来世はバッタとか痰壺になってしまう。

人間として徳を積んだものだけが来世も人間として生まれ変わり、そこで初めてこの理屈が出てくるのかもしれない。

つまり、今の自分は人間何回目か、ということでの差もあるのかもしれない。

人間3回目くらいでは、頭も悪く、ギャンブルに溺れ、生活力さえままならないのかもしれない。

人間15回くらいやってようやく一般的な生活を遅れる能力が伴うのかもしれない。

歴史上の偉人になるような人は、100回くらい人間をやってきたのかもしれない。

あなたは人間何回目くらいだろうか。

今このブログを読める環境にある時点で、ネット環境、情報収集力、集中力、さまざまな点を考慮し、やはり最低でも15回くらいは人間をやってきていると考えられる。

前世の自分が望んだ

とすれば、やはり現世のあなたは、前世のあなたが望んだ姿なのかもしれない。

今の自分に欠けていると思うところは、前世のあなたが理由があって排除したのだ

だからそこを真に受ける必要はないし、そこに落ち込む必要はない。自分がそうしたいと望んだんだから。

それよりも、今の自分で得意な点。長所だと思う点。そこをもっと抽出してあげたほうがいい。

なぜならそれは、前世のあなたがどうしても欲しいと思った能力なのだから。

先生はこう言っていた。

「そこにいち早く気づいた人が、早くに成功を収めるのだと思う」

と。

なんら確証はない話である。実に非科学的で非現実的な話だ。

ただ、今生きているということは紛れもない事実で、目の前を明るくするのも暗くするのも自分次第であり、暗いよりは明るいほうが生きていく上で楽しく健康的だということも事実だ。

私は、占いはいいことだけ信じる。