20年前。
1990年代まで売れる人というのは、選ばれた人であった。
「選ばれた人」から「支持された人」へ
ミュージシャンに例えると分かりやすい。
ミュージシャンになるためには、デモ・テープを送るところから始まる。
そのデモ・テープを聞いたレコード会社のディレクターが選ぶ。
またはコンテストの審査員が選ぶ。
誰かに選ばれた人が、スターへの階段を一段昇ることができた。
そこから20年の時が経ち、売れる人は、選ばれた人から、支持された人、に変わった。
「フォロワーが10万にいます、YouTube再生回数100万回です」
と、すでに支持されているという実績がある人がスターへの階段を一段昇ることができる。
音楽性がどうとか、歌がうまいとか下手とか、容姿がどうとか、それを審査員が選ぶ必要がない。
すでに大衆に支持されているという紛れもない実績が判断基準なのだ。
するとどうなるか。
まず、癒着が減る。
現代は癒着が減り毎日が選挙になった
選ばれる時代というのは、一部の権限を持っている人たちに選ばれるかどうかが全てなので、当然、癒着が生まれる。
お金を渡すことでプッシュしてもらう、枕営業をすることでデビューさせてもらう。
必然的にそういったことは横行する。
それが現代になると、一部の権限を持っている人たちの選ぶ力が問われなくなるので、その権限が弱まる。ネット上のインフルエンサーを探すことなんて小学生でもできる。
選ぶ人が、レコード会社のディレクターや著名な人である必要がない。
そうすると、大衆に支持されている、つまり、事前に多数決で決まった人たちが出ていけるわけだから、非常に全うな戦いができるわけで、今のほうが健全であると言える。
デモ・テープを送って、一部の審査員たちに決めてもらうのではなく、毎日が世間を対象とした選挙に戦いを挑めるようになったわけだ。
ネット発でも尖ったものは出てこない
しかしここにも弊害はある。
多数決で決まった人しか出てこないといういことは、平らなものしか出てこないということ。
ネットで話題の人が出てくるのだから、平らどころか尖った人だろうと思うかもしれないが、ネットで話題ということは、ネットに日常的に触れている人の支持を得ている、ということなので、実はとても一部のユーザーなのだ。
インターネットなんてほとんどの国民が利用しているだろう、と思うだろうが、Twitterをやったり、YouTubeコメントを日常的にしている人、となると、少々話が変わってくる。
今は高齢者に受けないと選挙は勝てないという。
つまり投票に行く層の支持を得ないと勝てないということだ。当然の理屈である。
それと同様に、ネット上での人気を演出できるアクティブユーザーの支持を得ている人しか世には出ていけない、となる。
だからYouTuberは小学生には強いが、年配の人の認知度は極端に低い。
声優やアイドルのTwitter力は強いが、Twitterをやらない層にはまるで弱い。
ネット上での人気というのは実はとても一部の烏合の衆であることが多い。
近年でいえば、そこをぶち壊すほどの破壊力があったのはピコ太郎くらいだったように思う。
完全なネット発であり、全国区で売れた。世界でさえ売れた。
ピコ太郎は本来、先述した一部の権限を持っている人たちが拾い上げ、大きなメディアから打ち出すべき存在であった。
しかし、千里眼を失った一部の権限を持っている人たちは、ネット上だけでの評判だけを見て、こんなの売れないだろ、と相手にしなかった。
または、ピコ太郎自身も、おそらく、この人たちにはわからないだろうと最初から踏んでいたのかもしれない。だから自身で発信を続けていたのかもしれない。
テレビが平らになったのもネットを気にするから
ネットの力を愚直に信用する局や代理店、スポンサーは、尖ったコンテンツをテレビでやらないようになっていった。
炎上するから、不買運動が起きる、問題になる、と、あらゆる自主規制をかけ、ネットユーザーのご機嫌をとりながら運営するようになった。
こうしてテレビから尖ったコンテンツは消え、尖ったアーティストやタレントが必要なくなり、一部のネット民の支持を得た人たちだけがテレビをはじめとする大きなメディアに拾い上げられる世になった。
これは、良い悪いの論点ではなく、あくまで今の「現象」を文に起こしただけである。
あとはこの状況をどう捉え、どのように活用するかは自分自身である。