「自信を持って、どんなことでもチャレンジせよ」
誰の言葉かはわからないが、誰かに相談されたとき、こう言っておけばだいたいそれっぽく聞こえる。
発信する資格
古くから当たり前のように存在する、当たり障りのない言葉だが、この言葉はこの現代においてもっとも重要となったと感じている。
「ビートたけしを誰も越えられない理由」でも話したが、
ハードが少なかった時代は、コンテンツの精度が重要であった。
それはつまり、発信できる場所が限られているため、その場所からどうすれば発信できるかの作戦が最重要であったということを意味する。
とにかくそこにはまらないと、そこから発信する資格さえ持てないからだ。
質より量
しかし時代は変わり、今は誰でもどこからでも、どんなスタイルででも発信できるようになった。
もちろん、同様にそこから目立たせる作業は相当の倍率となったが、発信する資格を持たずとも、誰でも発信できるようになった。
簡単に言えば、テレビを介さずとも、YouTubeから動画コンテンツを発信できるようになったということ。
動画メディアに限らず、あらゆるコンテンツも同様である。
そうなったとき、1日3つ発信する人間と、1ヶ月で1つ発信する人間、どちらがヒットを出すだろうか。
確率的にいえば当然、前者であることは一目瞭然である。
1日3つ発信と、1ヶ月で1つ発信、年間にすれば、1095と、12だ。
1095の手数と12の手数。
どちらがヒットを出すか賭けようとなったら、誰もが1095に賭けるだろう。
しかし、1095のほうは、どうにも体たらくで、センスもなさそうだ。
12のやつは一ヶ月間かけてるだけあって、きっちりしているし、真剣だ。センスもありそうだ。
それでも、前者に賭けるのではないか。
つまり、時代は完全に質より量となった。
確率論
これは手数の確率論の話であるが、才能に関しても同様である。
この2人のどちらかが天才である確率を考えてみる。
そもそも、天才と言われるような人、または「(成功するのは)ほんの一握り」というのは、具体的に何%くらいの人を指すのか。
1%すらないのではないか。
0.1%、いや、それ以下かもしれない。
1000人、1万人に1人だとすれば、この2者のいずれかが、天才と呼ばれるほどの才能を持っているとは考えにくい。
であれば、1095と12、どちらがヒットを出す確率は高いかはより明白だ。
センス論
さらに、確率論から外れても1095のほうがヒットを出す確率は高い。
なぜなら、1095個を毎日同レベルで発信できる人間はいない。
人はどんなことでも、毎日繰り返していれば、必ず向上するのだ。
センス、才能、技術、知識、経験、どれだけ才能がなくても、必ず向上する。
もちろん、だからこそ、どこに向かうかは大事だ。
目標がまるでおかしなところであれば実現性は薄いが、人は、全く関心がなく、興味もないものを毎日続けることはできない。
そして、自分に向いていないと感じるものに、関心は持たない。
ということは、毎日続けられるほどのものは、限りなく自分に向いていることだと考えられる。
であれば、やはり手数の多いほう、1095のほうがヒットする要因は高いのだ。
矛盾
しかしそう考えていくと、一つの矛盾が生じる。
毎日続けられるものほど好きなものを、毎日いたずらに発信できない、ということ。
ミュージシャンを目指しているものに、「一日一曲つくってきて。それ毎日公開してくから」と言われたら誰もが嫌がるだろう。
そんな短時間で作ったものを、人に聞かれたくない。もっとちゃんと作って、ちゃんと録音して、いい状態のものを発信したいと。
そう、これこそが、成功と失敗の違いなのだ。
どこまで短期間にできるか
もちろん、一日一曲は無理だろう。
では、どれくらいの期間ならいいのだろうか。
これから目指そうとしているものが、1年で1曲では悠長すぎないだろうか。
半年でも長い。
では3ヶ月か。1ヶ月か。1週間か。
結局ここを、どこまで短期間にできるかという勝負になってくる。
そう、ということはつまり、1日1曲が一番確率をあげる最短ということになる。
だからこそ、その精度を上げるために、第三者意見が常に介在すると、方向を間違えずに、レベルが上がりやすい。
昔もこの側面はあったとは思うが、コンテンツ製作者は、とくにここの能力がもっとも問われると思う。
どれだけ短期間で、人に提出できる状態ものを、多く生み出せるか。
特にインターネットは、一方的に見てもらうところではなく、探して見てもらうところだ。失礼はないに越したことはないが、大層に襟を正す必要まではない。
考えてるくらいならさっさとやって、さっさと発信するべきである。
どうせ才能なんて、はじめからありはしないのだから。