「相乗効果」の話をするとき、または、「ヒットするもの」の話をするとき、よく森田童子の『ぼくたちの失敗』を例に挙げる。
亡くなったあと
自分もまた、森田童子をドラマ『高校教師』で知った一人である。
一時期、亡くなると国民栄誉賞を贈呈するなんていう流れがあった。
それが最近減ってきたのは、死んだきっかけで上げるんじゃなくて、生きてる人を称えようという動きがあるからだと思う。
当人からすれば、意志もなにもない状態でもらってもなにも嬉しくないわけで、当然といえば当然だ。
なので、亡くなったからといって、その人を偲ぶためにその人の作品に触れたりするのはどこか軽薄な気もしなくもない。
しかしそれでもやはり、再びその人のことを考えるきっかけになってしまうことは否めない。
「高校教師」は再放送できない
『高校教師』は当時大ヒットしたドラマではあるが、現代では放映できないドラマとなった。
教師と生徒の恋、女子高生へのレイプ、その盗撮、これを21時台に全国放送でやっていたのだから、今考えるとすごい時代である。
しかし、人間なんてそんなもの、という啓示でもあった。
だからこそ、安易な行動を抑制していた部分もかなりあったように思う。
今は、悪を徹底的に叩くことで数字を稼ぐ手法が通例だ。
悪の根源には近づきもせず、とにかく国民感情を煽り、全員で袋叩きしていくことで、視聴率を稼いでいく。
しかし20年前、そんな悪が毎週21時にドラマの中に登場していた。
野島伸司作品で言えば、『聖者の行進』においては、障害者をセンター長がレイプするといった一幕もあった。
悪い夢のように…
そんな人間の業とも言えるような、ずっと奥にある人間の本当の純粋な部分を、森田童子は歌っていた。
だからこそ森田童子の歌は、当時の野島伸司作品ととても相性が良かった。
よっぽど感性が鋭い人でない限り、臭いものに蓋をしていく現代において『ぼくたちの失敗』を聞いて、心の琴線に触れるような人はいないだろう。
やはり森田童子は、『高校教師』と共に聴くのがいい。
しかし今はもう、世に放つことができなくなってしまった。
時代をリードするかのような強いメッセージを放ったドラマであったが、人が求むものだけを提供する現代においては、こういった作品は日の目を見ない。
森田童子には、今の日本がどう見えていたのだろう。
悪い夢のように、時がなぜていく。