石野卓球、ピエール瀧、電気グルーヴとは、いったいなにか。
電気グルーヴとファンの関係
例えばアイドルを批判する。するとファンにフルボッコにされる。電気グルーヴを批判する。ファンはフルボッコにするどころか良いぞもっとやれと言わんばかりに焚きつける。
ある種
逆宗教。
教祖様を一緒になってディスりもする。
一言で言うとそんな感じ。
もちろん今はデリケートな状態にあるので、その様相とはいささか違うか、電気グルーヴとファンの関係性は、それくらいとても特殊で、強い結び付きがある。
電気グルーヴの圧倒的グルーヴ感
ピエール瀧の存在
その様相を作り出しているものこそ、電気グルーヴが織りなす独特のグルーヴ感にある。
電気グルーヴはいわゆるアーティスト、ミュージシャンのそれとは違う。これまでの言動を見ていればそれは容易にわかることで、とにかく自分たちが楽しいと思うことを好き勝手やってる人たちだ。
その象徴こそが、ピエール瀧さんの存在であった。
楽器も弾かないし、たまに歌うけどボーカルやコーラスのそれとも少し違う。役割はあくまで「瀧」。
石野卓球の才能
そんな、好き勝手やってるだけのユニットがセールス的に評価されたのは、石野卓球さんの才能にある。
基本的に作詞作曲ヴォーカルまで手がけるわけだからシンガー・ソングライター。海外を見ても、テクノ界にはエイフェックス・ツインなど、ソロだけどユニット名みたいなアーティストは多くいるため、例えば電気グルーヴという名の石野卓球ソロプロジェクトでも良いのだ。
しかし、石野卓球さんには、ピエール瀧さんを含めた電気グルーヴという屋台骨があってこそ、その才能をいかんなく発揮できる人物なのだ。
言うなれば、電気グルーヴとは、卓球さんによって無数に広められた種から、瀧さんという花が開いて虜になるようなイメージだ。
石野卓球とピエール瀧
この二人は、テクノを使ってずっと遊んでるおじさんである。
個々の才能はもはや周知の事実であるが、やはり電気グルーヴという形で折り重なっていなかったら、個々の才能も開花することはなかっただろう。
ラジオなんかが顕著であるが、とにかくこの二人のトークは、ずっと聞いていられる無駄話。
それはどこか、ダウンタウンのようでもあり、ヒロト&マーシーのようでもある。
テクノ界のヒロト&マーシー
どことなく二人の関係性は、甲本ヒロトさんと真島昌利さんのそれに似ているように映る。1+1が3にも4にも10になる。
だからか、電気グルーヴにはテクノファンのみならず、ロックファンも多い。
本人たちが意識はせずとも、自由奔放に振る舞い、見るものを惹き付けるそれは生粋のエンターテイナーに見えるため、音楽ファン以外も多くの人種を魅了してきた。
それでいて、肝心の音楽性においては『N.O』や『誰だ』など、ポップ色が強いものをメジャーデビュー後に立て続けに打ち出し、しっかり突出してきた。
そんな独自路線とポップ性を修練させたものが『Shangri-La』。今聴いても全く色褪せない、日本におけるテクノミュージックの金字塔だ。
スタンスにおいては、わかるものだけがわかればいいという、一見傍若無人に見える姿勢にも見えるが、音楽性においては決してそこにあぐらをかくことなく、ヒットさせることの難しさと真摯に向き合ってきている人たちなのだ。
そして、数々の結果を残してきた。とても自由に遊びながら。苦しみながら。
テクノとの出会いが電気グルーヴだったという人はとても多いと思う。
ピエール瀧の逮捕について
おふざけの延長線で、身内ノリの延長線で好き勝手やって、ついには銀幕の中でまで活動の場を広げてきたピエール瀧さんは、とてもカッコよかった。
音楽業界と芸能界を、ふざけながら遊ぶように、アウトサイドからメインストリームに入り込んでいく瀧さんは、男たちの憧れだった。
ただその裏で、本当のおふざけをしてしまっていたというのは、なんというか、やっぱりちょっと引いてしまった。
ケンカが強く、いつも人を殴っている不良だけど、決して自分より弱いものは殴らない、弱者の味方だった男が、実は裏で弱い者いじめを繰り返していて、過ってそのまま一人殴り殺してしまった、という話を聞いたかのような喪失感がある。
ただ、この犯罪に被害者はいない。間接的な被害者はたくさんいるけども。
不謹慎を承知で言わせてもらうと、ピエール瀧さんがいる電気グルーヴの存在というのは、ファンにとっては、やめたくてもやめられない中毒性のあるものであり、世間から見れば、復活を望む電気ファンの言動は理解されないだろうし、メディアはそこに疑問符を投げ続けるだろう。
卓球さんが撒いた種から咲いた瀧さんという花はケシの花で、我々こそ、電気グルーヴという名の麻薬中毒なのかもしれない。