日大悪質タックル問題は、被害選手まで取材に応じるにまで至り、メディアの報道は過熱していくいっぽうである。
過熱する報道
もうすでに行き過ぎの領域に入っていることに現時点で誰も気づいていない。
おそらく数ヶ月、数年後、メディアの報道も行き過ぎていたと語られる日が来るだろうし、そういったことを語る人と思う。
でも、今そんな発言をしようものなら、「日大の味方をするのか」と袋叩きにあうので、誰もそんなことは言えない。
コメンテーターたちはとにかく「ひどい」「ありえない」「日大許せない」を、まだあと数週間は繰り返すのみだろう。
「悪いのは全て日大」という名目のもとに
日大が悪いのはもう誰の目を見ても明らかである。
しかしこの問題は、内田前監督が会見をしたところで本来は一区切りのはずだった。
もちろん、それで終わりということではなく、あとは、被害選手父親が提出した被害届の動向や、それを受けての内田前監督ら日大側の処分がどうなるかの動向を継続報道はする必要はある。
しかし、被害選手までメディアに引っ張り出してくるのはもう行き過ぎである。
彼だって出たくなかっただろうし、でも出ていかざるを得ない状況になってしまっていて、その状況を作ったのはメディアであり、我々である。
「日大はこんなに悪いところなんですよ!」という報道に視聴者も加熱した結果、江戸っ子は乱入してくるし、被害選手が会見に応じるにまで至り、それも、あればあるで、我々は見てしまう。
もちろん見ている側に罪の意識はない。それもこれも「悪いのは全て日大」だからだ。
そういうときだけ自粛しない
「みんなが見るから(関心があるから)報道しているのだ、追求しているのだ」、というメディアの建前はある。
しかし、そのわりには絶対に取り上げないものがあるのも事実だ。
ゲスい我々は、それはそれで知りたい、あるなら見たいと思ってしまう一面は確かにある。
しかし、それならそれで、「あの件」も取り上げてくれよ、とも思うが、そこはしっかり自粛する。特に芸能関係。
その「自粛力」があるなら、被害選手が応じると言おうと言うまいと、テレビカメラの前に引っ張り出してくるべきではないのではないか。
日大広報部が終わらせなかった
ベッキーのときもそうであったが、国民感情を完全に味方にできると判断したときのメディアの攻め方はすさまじい。
徹底的に叩き、10という悪質行為を20にも30にもする。
もちろん、10は10と報道する。ただ、我々の目には20にも30にも受け取れてしまうのだ。
それは取る側の裁量ではあるが、我々はテレビの演出にどうにも弱く、本質を見失ってしまいがちだ。なのでバッシングの熱は止まらない。
すると相手も、通常事態では想定しなかった反応がでてくる。
日大広報部が顕著で、あの会見場での対応が、今回の騒動をさらに過熱させた象徴的な一幕であった。
過熱させたがゆえのパニックなのか、または、だからこそ素の部分を引き出せたと取るべきか、もともと日大内にあった闇が露呈したということか。
問題の本質
しかし、問題の本質もまたここにある。
日大を叩く行為も必要かもしれないが、なぜ広報部はあんな対応をするのか、あの大学内はどういう組織になっているのか、そもそもあの選手はなぜそのように受け取ったのか、大学の監督の権力はどれほどのものなのか、選手との関係性はそれで正しいのか、なぜこういったことが起きたのか、そういったことをきちんと取材し、少子化時代の大学の正しいあり方を議論していくということも、建設的なことではないだろうか。
そういった議論はせずに、日大を徹底的に叩き、そこから剥がれ落ちてきたものをまた取り上げて、では、問題の本質にはなかなか辿り着けない。